足利ストーリー6話|ヤエ、足利へ――十日の舟旅

この記事は約3分で読めます。

舟は江戸を出て、十日かけて川をさかのぼった。
松戸を通り、関宿、古河を経て、渡良瀬川の猿田河岸(通称ヤエンダ)に至る長い旅である。

ひきぶねの旅―江戸から足利へ―

川を上るのは、下りのように楽じゃない。
男たちは裸足で岸にあがり、太い綱を肩にかけて走った。
声がそろう。

「はあああ〜 よいさあ こらしょ!」
その声は歌のように川辺にひびき、
舟はぎしぎしと音を立てながら少しずつ前へ進んだ。

湿った草と土のにおい、油を塗った綱のにおい。
舟がきしむたび、ヤエの体は小さく揺れた。

関宿での出会い

関宿で荷を積み替えるあいだ、一人の外人が舟に乗り込んできた。
背が高く、顔立ちは彫刻のようにきれいだった。
ヤエは思わず目を見張り――でも、すぐに視線をそらした。

(旅でくしゃくしゃになった髪と、ほこりっぽい着物……こんな格好を見られてしまった……)
胸がちくりとして、うつむくしかなかった。

その外人は足利学校で教えている先生だという。
足利学校は、儒学や算学、兵学だけでなく、外国の書物まで教える学問の場だと聞いたことがある。

宿場での夜

その夜は、宿場の舟宿に泊まれることになった。
女は自分だけ、宿の女将さんの気づかいで、ヤエはお手伝いの娘と同じ部屋にしてもらえた。

「長旅なんでしょ? 川を上るのは大変だよね」
「ええ、足利まで……十日かかるって聞いてます」
「そんなに!酔わないかい?女はあんた一人なんだってねえ、たいした度胸だよ!」
娘は笑いながら竹のほうきをくるりと回した。

「ここで、どんな仕事をしているの?」
「あたしはね、客室の掃除と布団の用意、それから荷物運びの手伝い。
 朝は朝餉(あさげ)の支度で忙しいし、夜は馬の世話もあるの。
 大名行列が来た日なんて、地獄みたいよ」
娘の目はきらきらしていて、汗と藁のにおいがほんのり漂った。

夜、布団を並べて横になったとき、娘がふと聞いてきた。
「さっきの外人さん、きれいな顔だったね」
ヤエはどきりとして、顔をそむけた。
「……見られちゃったの、こんな格好で」
娘はくすりと笑って、「そういうの気にしないよ。あの人、きっと優しい人だよ」と言った。
その言葉に、ヤエの胸はあたたかくなった。

宿場がない夜

宿場がない区間では、舟の上で夜を明かすこともあった。
男たちは川岸の柳に舟を結び、荷のあいだにむしろを敷いて寝床をつくった。
湿った土と水のひやりとした匂い、夜の虫の声。
夜番の焚き火がはぜる音が、少しだけ心を落ち着かせてくれた。

(暗い…こわい…でも、みんなが一緒なら…)
ヤエは荷に背中をあずけ、目を閉じた。

約束

十日目、舟は猿田河岸(ヤエンダ)に着いた。
長い旅の終わりに、外人の先生はヤエの前に立ち、革の表紙の分厚い本を差し出した。

「これは、あなたに。また会えたらいいね」

ヤエは一瞬言葉を失い、ただうなずいた。
ページを開くと、見たことのない文字――英語。
意味はまったくわからないのに、胸の奥がどきどきと高鳴った。
革の匂いと川風が混ざり、心に小さな灯がともったような気がした。

船旅の終わり

舟を降りると、体は揺れ、足はガクガク震えていた。
川の上で暮らした十日間が終わり、ようやく自分の布団で眠れると思うと胸がふっと軽くなった。
(キヌに早く会いたい。女将さんも元気かな。みんな、まってるかな…)

胸の奥に喜びが広がり、疲れた体を押し出すように歩き出した。
無事に旅を終えて、またここに立っている――
この不思議な感じが、胸の奥をじんわり温かくした。